おっさんの徒然日記

聖教新聞に掲載された記事を紹介するブログです。

【名字の言】令和5年6月17日

~~聞く耳を育てる~~

 「育児は育自」とよく耳にする。ある臨床心理士は“育自”の部分に同音の当て字で「育血」(家族を育てる)、「育時」(時代を育てる)などを挙げて、こう論じた。「その根本は『育耳』(聞く耳を育てる)である」と

 仏法では「耳根得道」(耳によって仏道を得る)と説く。人々の耳に何を届けるか――それにより民衆、ひいては時代や社会の盛衰にも大きな影響を及ぼすとも言えよう

 池田先生がかつて、ある会館を訪れ、居合わせた幼い子どもたちを励ました。「将来、創価大学へおいで。待ってるよ」。まだ言葉を理解できない子どもに代わって、母親が「はい」と即答した

 師の期待に応えたかった両親は、“わが子3人をどう育てるか”と真剣に考えた。語り合う中で、“そのためにまずは私たちが成長することだ。自身の人間革命をして、子どもが使命の人生を歩めるよう、未来への道を開いておくことだ”と決めた。以来、日々、自らの課題に朗らかに挑んだ。親子での語らいを通して、先生の偉大さも伝えてきた

 先の心理士は「人間は『耳』で聞いたことからさまざまなことを理解し判断して、行動を起こしていく」とも。後年、3人の子どもたちは皆、自ら志望し、創価大学に進んだ。

 

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【名字の言】令和5年6月16日

~~「けれど、希望はなくすまい」

14歳のポーランドの少女がつづった日記~~

 

雑記帳に、その日の出来事がびっしりと書かれてある。所々、子どもらしい、つづりの間違いもある。ナチス占領下のポーランドで、14歳で命を落とした少女ヴァンダ・プシブィルスカ。彼女は戦時下で日記をつづった

 記録が残っているのは、1942年から44年までの間。自分の勉強部屋が持てるようになったことなど、日常の喜びが記されている一方、戦争への怒りなど、10代の少女の赤裸々な心情が垣間見える

 爆撃によって自宅を失った。それでも、彼女は平和の到来を固く信じた。亡くなる1カ月前の日記には、こう記している。「わたしたちが希望をなくしかけているなんて、それこそ恥だ」「どんな戦い、どんな試みにしても、うまくいくときもあれば、いかぬこともある」(米川和夫訳) 

 彼女の日記が私たちに教えてくれること――それは、希望は自らが創り出すものであり、過酷な現実にあっても、人間は胸中に希望を抱いている限り、強く生き抜くことができるということ

 世界では、いまだ戦火が続く。戦争の犠牲になるのは、いつも女性であり、子どもだ。私たちは、一日も早い危機の終結を強盛に祈り続けたい。「けれど、希望はなくすまい」とつづったヴァンダのように。

 

名字の言 「けれど、希望はなくすまい」――14歳のポーランドの少女がつづった日記

【名字の言】令和5年6月15日

~~同胞に希望を送った「戦火のランナー」~~

 「戦火のランナー」というドキュメンタリー映画がある。2011年に独立した南スーダン出身の初の五輪選手の足跡を描いた。難民だった彼は、アメリカの支援によって渡米し、ロンドン五輪に長距離ランナーとして出場を果たす

 南スーダンの国旗を掲げる沿道の応援団、遠い祖国の地でテレビに釘付けになる人々。至る所で喜びが爆発した。彼の走りは、彼一人のものではなかった。それは、同胞の喜びであり、祖国の新たな時代の幕開けの象徴でもあった

 埼玉のある男子部員は10年以上、統合失調症と格闘してきた。学会活動が思うようにできない時は、友人の幸福を願って題目を唱え、電話やメールで励ましを送ってきた

 療養の時間を使って、英語・フランス語の習得に励んだ。最近になって、両言語を駆使して対話したアフリカの友人が、題目の実践を始めた。やがて、体調も少しずつ好転。長年の夢である英語教員を志し、挑戦を再開した。その雄姿が、多くの友を奮い立たせている

 一人の勝利のドラマは、周囲の大きな希望となる。その歓喜の輪を幾重にも広げることが、私たちの戦いだ。ゆえに、縁する一人一人との絆を大切にしたい。一切は一人から始まる――広布の鉄則である。

名字の言 同胞に希望を送った「戦火のランナー」

 

【名字の言】令和5年6月13日

~~琉球ゴールデンキングス初優勝の勝因~~

 プロバスケットボールBリーグで初優勝を果たした琉球ゴールデンキングス桶谷大HCは、“昨季のCS(チャンピオンシップ)決勝で負けた経験”を勝因に挙げた。シーズン最高勝率を記録するも、準優勝に泣いた昨季を超えるチームづくりに挑んだ

 掲げたのは、一人が複数の役割を担う「ポジションレス」。出場選手を固定せず、全員が主力となるチームを目指した。シーズン序盤はミスが続いたが、戦術が浸透するにつれ、チームは力を発揮。激戦の西地区を制する

 CS決勝の相手は、キングスの最高勝率記録を塗り替え、“史上最強”と評された千葉ジェッツ。だがキングスの堅守と多彩な攻撃が相手を上回った。チーム一丸の“過去を超える”挑戦は、新たな歴史を切り開いた

 一つの成功体験にとらわれる時、人も組織も進歩は止まる。勝ち続けるためには、新たなステージへ進むことが必要だ。失敗を恐れていては、飛躍の機会は訪れない

 一筋縄ではいかない状況でも、挑戦を積み重ねる執念と忍耐が、凱歌の未来を呼ぶ。昨日の自分を超える挑戦が、わが人生の勝利の扉を開く。「月々日々につより給え」(新1620・全1190)との御聖訓のまま、勇気の一歩を踏み出したい。

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【名字の言】令和5年6月11日

~~東京ヤング壮年部の新しい挑戦~~

 

「男子部の時より“型破り度”が高くて楽しかった」――巣鴨の東京戸田記念講堂で行われた「東京(23区)ヤング壮年部大会」の参加者から声が届いた

 入り口では各区の総区長が参加者を出迎えた。場内では創価グロリア吹奏楽団の演奏が迫力満点で、パパと一緒に参加した子どもたちも大喜び。担当幹部による自由質問会も熱を帯びた

 「学会活動での声のかけ方」を巡る質問に対し、「人間の口は一つだが耳は二つある。“よく指導する”とは“よく聞く”ことではないか」というアドバイスにうなずく人が多かった。「久しぶりにリアルな会合に来たが、やはり学会指導は仕事の姿勢にも通ずる」という声も

 池田先生は2005年、「次の世代がどうなるか――これは、今のリーダーの責任である」と訴えた。「絶対に、若い人を、上から抑えつけてはいけない。それでは、人は伸びない。この一点を、間違えたら怖い。『抑える』のではなく『育てる』のだ」と

 ヤング壮年は主に40代。多くの友が、こうした先生の指導・激励に触発を受け、成長の糧にしてきた。「我ら広布の責任世代」とのスローガンを、それぞれの地区で、地域で、どう目に見える形にしていくか。新しい時代の新しい挑戦が始まっている。

 

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名字の言

 

〈地域を歩く〉 岩手県盛岡市①

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世界が見つめる栄えの都
郷土に脈打つ挑戦の息吹

 

 それぞれの地域には、その地にしかない歴史があり、魅力があり、誇りがあります。日本の各地を訪ね、その地で生き抜く学会員を追う連載「地域を歩く」。今回は、岩手県盛岡市が舞台です。

 本年1月、米ニューヨーク・タイムズ紙が「2023年に行くべき52カ所」を発表した。世界の名だたる都市が並ぶ中、ロンドンに続き、2番目に紹介されたのは、岩手県盛岡市だった。
 東京や大阪といった大都市でもなければ、人口規模も東北で5番目と決して大きな都市でもない。
 なぜ、この地が世界から注目されるのか――。その答えを探るべく、盛岡を訪ねた。

 JR盛岡駅を出て取材先へ急ぐ道中、目を奪われる光景があった。色彩豊かな花々が咲く河川敷の背後にそびえる秀峰・岩手山だ。歩けば汗ばむ5月にあっても、頂には雪が残り、涼しげな雰囲気を醸し出していた。
 「絶景でしょう」と迎えてくれたのは千葉康則さん(本部長)。聞けば、岩手山は“南部片富士”の異名を持ち、この地のシンボルだという。
 盛岡の自然の魅力は、それだけではない。“杜と水の都”と称され、一級河川北上川のほか、雫石川、中津川、簗川という四つの清流が市内に流れ込み、大地を潤す。市役所のそばを流れる中津川では、アユやヤマメが捕れるほか、秋になるとシャケが遡上することでも知られる。
 「県庁所在地で、こんなに川がきれいな場所は、そうはありません」
 千葉さんは、県内の釣り人のマナー向上を図る岩手県釣りインストラクター連絡機構の代表。河川の清掃活動も実施し、今月15日には中津川でアユの放流も行ったという。
 「この大好きな郷土の自然を、子どもたちの世代に残したい。それが私の夢です」と千葉さん。その瞳は、少年のように輝いていた。

 「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」と詠んだのは、この地に生まれた詩人・石川啄木である。
 盛岡は、教育者・新渡戸稲造国語学者金田一京助らも輩出してきた「文化の街」として知られる。
 また、江戸時代から栄えた城下町。当時から続くという雑貨商をはじめ、染物店や古民家を改修した個性豊かな店が軒を連ねる。街を歩けば、コーヒーの香りが漂い、ジャズの音色が聞こえてくる。
 「雄大な自然にも囲まれ、詩でも詠みたくなりませんか」と語りかけてきたのは、中村雄幸さん(副本部長)。イラストレーターとして、大手出版社の書籍の表紙画・挿画、演劇の舞台美術などを手がける。
 盛岡市で愛唱歌が公募された40年ほど前には「啄木の青春の街 盛岡に」という楽曲を作詞・作曲し、最優秀賞に。現在は動画投稿サイトで、地域の魅力を伝える自作の歌なども発信する。
 「ここの空気に触れていると、創作意欲が湧いてくるんです。自分を表現できる場にあふれているのが、盛岡の魅力です」と中村さん。芸術の力で地域に活力を送る。

〈信仰体験〉 心に寄り添う保育所 令和5年5月23日

聖教新聞 2023/05/23付け

今ここにある幸せ

 

【長野県松本市】「自分がされて助かること、うれしいことを人にもしているだけなの」。市内に保育所を開設して26年。山田良子さん(76)=支部副女性部長=は、今日も子どもたちの居場所であり続ける。

 夕焼けが町をうっすらと、オレンジ色に染める。駅前の繁華街ではネオンが点滅し、夜の準備を始めた。保育所「チャイルドハウスなでしこ」が、最も慌ただしくなる時間帯。
 あんなに夢中で遊んでいたおもちゃを放り出し、一目散に迎えに来た親に駆け寄る子。そんな親子の姿に、山田さんは目を細める。「今日も、お利口さんでしたよ」
 そうかと思えば今度は、手を引かれてきた子を迎え入れる。後ろ髪を引かれるように夜の勤務へと向かう親の背中に、山田さんは優しく声をかける。「安心して。お仕事頑張ってね」
 ここでは、生後数カ月の赤ちゃんから、未就学児までの子どもを預かっている。
 「よしこちゃん、遊ぼー」。笑顔の子どもたちに呼ばれて、思わず山田さんの目尻が下がる。「子どもが大好きなの。ここにいる時は、安心して楽しく過ごしてほしい。真剣勝負で子どもと向き合います」
 * 
 幼少の頃の記憶をたどると、胸に寂しさがよみがえる。両親の不仲。家の中は、重たい空気が流れていた。気付けば、いつも他人の顔色をうかがう、内気な少女になっていた。
 気が滅入ると、逃げ場所の近所の靴屋へ。そこの娘が妹のように、かわいがってくれた。意志の強さが伝わる瞳。堂々としていて、はきはき話す姿に憧れた。彼女は創価学会員だった。
 ある時、誘われるまま女子部(当時)の集まりに参加して驚いた。全員が彼女と同じ心の強さを持っていると感じた。「必ず幸せになれるよ」。“私もみんなのようになりたい”。両親に頭を下げ、1960年(昭和35年)に入会する。
 その後、両親は離婚。再婚した母に引き取られたが、新しい父とはケンカが絶えなかった。飛び出すように家を出て、20歳で結婚。しかし、2年で夫は借金をつくってどこかへ消えた。
 追っては逃げ、すくってはこぼれていく平穏な日々。「私は幸せに嫌われている……」。諦めへと向かう命を引き戻してくれたのは、学会の先輩だった。「宿命から逃げちゃいけない。目をつむっちゃいけない。立ち向かわなきゃ!」。幸せをたぐり寄せるように、懸命に学会活動に走った。
 27歳の時、夫・満興さん(71)=壮年部員=と再婚。2人の子どもが生まれ、春の訪れを感じた。だが夫の転職などが重なり不安定な生活が続く。山田さんも、がむしゃらに働いた。
 40歳の時、家が火事に見舞われた。幸いけが人はなく、隣家にも被害はなかったが、全焼したわが家を前に、失意の底に沈んだ。
 話を聞いて飛んできた婦人部(当時)の先輩は、温かくも厳しかった。「仏道修行は簡単じゃないよ。決して油断しちゃいけない」。せわしない日々を理由に、知らず知らずのうちに、学会活動から遠ざかっていた。もう一度、信心をやり直そうと心に誓った。
 仕事をしながら、時間を見つけては仏法対話に歩いた。「法華経の行者の祈りのかなわぬことはあるべからず」(新592・全1352)。多忙な中にあっても、“行者”であり続けようと、真剣に信心に励んだ。
 何人もの友人に弘教を実らせた。友の人生と向き合う先に、自身の幸せを探した。
 この頃、知人に勧められて人材派遣会社を立ち上げた。市内の温泉宿に、コンパニオンや仲居を派遣する。これが成功した。夫も造園会社に就職し、生活は安定。家も建てることができた。
 感謝の思いで、「ママ」と呼んで慕ってくれる従業員に尽くした。そこで彼女たちの苦労を知る。
 コンパニオンの多くはシングルマザーだった。笑顔で宴会を盛り上げる半面、子どもの心配が尽きない胸の内を隠していた。家で一人、留守番させているという人も。
 「安心して預けられる場所があれば」。山田さんは、けなげで懸命な母たちの味方になりたいと思った。
 役所に通い、一から勉強した。ベビーシッターの資格も取得。そして50歳で「チャイルドハウスなでしこ」を開設した。以来26年。さまざまな親子を見守り続けてきた。
 * 
 夜間利用者のほとんどが、夜の飲食店で働くシングルマザー。多くが厳しい現実と格闘していた。未婚で子を育てる母の顔には、まだあどけなさが残る。父親について口をつぐむ母の目には、孤独が色濃くにじむ。それでも彼女たちは、懸命に小さな命を愛し、育てていた。
 幸せを求めて生きる姿が、かつての自分と重なる。そして思った。“今の私には、悲哀にあってなお希望をともす信心と、温かな創価家族のぬくもりがある。ならば自らの使命として、彼女たちを守り支える防波堤になろう”と。
 そんな山田さんに、話を聞いてほしいと、心の内を吐露する母たちも多い。親身に寄り添い続けてきた。
 「彼女たちは懸命に生きている。かける言葉が見つからない時もあります。親が子を、子が親を思う気持ちは理屈じゃないのね」
 深夜、母の迎えを玄関で待つ子がいた。寂しげな背中を励ましたくて「お母さん遅くて困っちゃうね」と声をかけた。すると「一生懸命働いてるママを悪く言わないで」と。
 「子どもにとって、お母さんは世界一。何があっても大好きなんです。だからせめて、ここにいる時は寂しい思いはさせたくない。できることは何でもしてあげたいんです」。76歳になった今も、深夜の預かりを続ける理由がここにある。
 これまで度重なる病と闘ってきた。心不全、脳動脈瘤、肺がん、甲状腺がん、脊柱管狭窄症……。余命を宣告されたことも。現在も毎月の検査が欠かせない。
 「病によりて道心はおこり候なり」(新1963・全1480)。命と向き合うたびに〈一切の苦悩は、それを乗り越えて、仏法の真実を証明していくために、あえて背負ってきたものなんです〉との、池田先生の励ましに力をみなぎらせてきた。
 ずっと追い求めてきた幸福。宿業から逃げず、がむしゃらに生きてきたからこそ芽生える同苦の心。
 「すぐ情に流されちゃうのよ。おせっかいなだけかもしれないけどね」。そう言いながら、その手ですくい上げてきた人々が確かにいる。
 「『なでしこ』があって本当によかった」「よしこちゃん、ありがとう! 大好き!」。母子から贈られる感謝の言葉の数々。
 今だから言える。「私はずっと前から、幸せだったみたい」