おっさんの徒然日記

聖教新聞に掲載された記事を紹介するブログです。

〈信仰体験〉 心に寄り添う保育所 令和5年5月23日

聖教新聞 2023/05/23付け

今ここにある幸せ

 

【長野県松本市】「自分がされて助かること、うれしいことを人にもしているだけなの」。市内に保育所を開設して26年。山田良子さん(76)=支部副女性部長=は、今日も子どもたちの居場所であり続ける。

 夕焼けが町をうっすらと、オレンジ色に染める。駅前の繁華街ではネオンが点滅し、夜の準備を始めた。保育所「チャイルドハウスなでしこ」が、最も慌ただしくなる時間帯。
 あんなに夢中で遊んでいたおもちゃを放り出し、一目散に迎えに来た親に駆け寄る子。そんな親子の姿に、山田さんは目を細める。「今日も、お利口さんでしたよ」
 そうかと思えば今度は、手を引かれてきた子を迎え入れる。後ろ髪を引かれるように夜の勤務へと向かう親の背中に、山田さんは優しく声をかける。「安心して。お仕事頑張ってね」
 ここでは、生後数カ月の赤ちゃんから、未就学児までの子どもを預かっている。
 「よしこちゃん、遊ぼー」。笑顔の子どもたちに呼ばれて、思わず山田さんの目尻が下がる。「子どもが大好きなの。ここにいる時は、安心して楽しく過ごしてほしい。真剣勝負で子どもと向き合います」
 * 
 幼少の頃の記憶をたどると、胸に寂しさがよみがえる。両親の不仲。家の中は、重たい空気が流れていた。気付けば、いつも他人の顔色をうかがう、内気な少女になっていた。
 気が滅入ると、逃げ場所の近所の靴屋へ。そこの娘が妹のように、かわいがってくれた。意志の強さが伝わる瞳。堂々としていて、はきはき話す姿に憧れた。彼女は創価学会員だった。
 ある時、誘われるまま女子部(当時)の集まりに参加して驚いた。全員が彼女と同じ心の強さを持っていると感じた。「必ず幸せになれるよ」。“私もみんなのようになりたい”。両親に頭を下げ、1960年(昭和35年)に入会する。
 その後、両親は離婚。再婚した母に引き取られたが、新しい父とはケンカが絶えなかった。飛び出すように家を出て、20歳で結婚。しかし、2年で夫は借金をつくってどこかへ消えた。
 追っては逃げ、すくってはこぼれていく平穏な日々。「私は幸せに嫌われている……」。諦めへと向かう命を引き戻してくれたのは、学会の先輩だった。「宿命から逃げちゃいけない。目をつむっちゃいけない。立ち向かわなきゃ!」。幸せをたぐり寄せるように、懸命に学会活動に走った。
 27歳の時、夫・満興さん(71)=壮年部員=と再婚。2人の子どもが生まれ、春の訪れを感じた。だが夫の転職などが重なり不安定な生活が続く。山田さんも、がむしゃらに働いた。
 40歳の時、家が火事に見舞われた。幸いけが人はなく、隣家にも被害はなかったが、全焼したわが家を前に、失意の底に沈んだ。
 話を聞いて飛んできた婦人部(当時)の先輩は、温かくも厳しかった。「仏道修行は簡単じゃないよ。決して油断しちゃいけない」。せわしない日々を理由に、知らず知らずのうちに、学会活動から遠ざかっていた。もう一度、信心をやり直そうと心に誓った。
 仕事をしながら、時間を見つけては仏法対話に歩いた。「法華経の行者の祈りのかなわぬことはあるべからず」(新592・全1352)。多忙な中にあっても、“行者”であり続けようと、真剣に信心に励んだ。
 何人もの友人に弘教を実らせた。友の人生と向き合う先に、自身の幸せを探した。
 この頃、知人に勧められて人材派遣会社を立ち上げた。市内の温泉宿に、コンパニオンや仲居を派遣する。これが成功した。夫も造園会社に就職し、生活は安定。家も建てることができた。
 感謝の思いで、「ママ」と呼んで慕ってくれる従業員に尽くした。そこで彼女たちの苦労を知る。
 コンパニオンの多くはシングルマザーだった。笑顔で宴会を盛り上げる半面、子どもの心配が尽きない胸の内を隠していた。家で一人、留守番させているという人も。
 「安心して預けられる場所があれば」。山田さんは、けなげで懸命な母たちの味方になりたいと思った。
 役所に通い、一から勉強した。ベビーシッターの資格も取得。そして50歳で「チャイルドハウスなでしこ」を開設した。以来26年。さまざまな親子を見守り続けてきた。
 * 
 夜間利用者のほとんどが、夜の飲食店で働くシングルマザー。多くが厳しい現実と格闘していた。未婚で子を育てる母の顔には、まだあどけなさが残る。父親について口をつぐむ母の目には、孤独が色濃くにじむ。それでも彼女たちは、懸命に小さな命を愛し、育てていた。
 幸せを求めて生きる姿が、かつての自分と重なる。そして思った。“今の私には、悲哀にあってなお希望をともす信心と、温かな創価家族のぬくもりがある。ならば自らの使命として、彼女たちを守り支える防波堤になろう”と。
 そんな山田さんに、話を聞いてほしいと、心の内を吐露する母たちも多い。親身に寄り添い続けてきた。
 「彼女たちは懸命に生きている。かける言葉が見つからない時もあります。親が子を、子が親を思う気持ちは理屈じゃないのね」
 深夜、母の迎えを玄関で待つ子がいた。寂しげな背中を励ましたくて「お母さん遅くて困っちゃうね」と声をかけた。すると「一生懸命働いてるママを悪く言わないで」と。
 「子どもにとって、お母さんは世界一。何があっても大好きなんです。だからせめて、ここにいる時は寂しい思いはさせたくない。できることは何でもしてあげたいんです」。76歳になった今も、深夜の預かりを続ける理由がここにある。
 これまで度重なる病と闘ってきた。心不全、脳動脈瘤、肺がん、甲状腺がん、脊柱管狭窄症……。余命を宣告されたことも。現在も毎月の検査が欠かせない。
 「病によりて道心はおこり候なり」(新1963・全1480)。命と向き合うたびに〈一切の苦悩は、それを乗り越えて、仏法の真実を証明していくために、あえて背負ってきたものなんです〉との、池田先生の励ましに力をみなぎらせてきた。
 ずっと追い求めてきた幸福。宿業から逃げず、がむしゃらに生きてきたからこそ芽生える同苦の心。
 「すぐ情に流されちゃうのよ。おせっかいなだけかもしれないけどね」。そう言いながら、その手ですくい上げてきた人々が確かにいる。
 「『なでしこ』があって本当によかった」「よしこちゃん、ありがとう! 大好き!」。母子から贈られる感謝の言葉の数々。
 今だから言える。「私はずっと前から、幸せだったみたい」